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戦国時代知将


戦国時代知将

中国の戦国時代、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでの期間に存在した頭脳明晰な知将情報です。


王翦

王 翦(おう せん、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の将軍。頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人。王賁の父。王離の祖父。秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、趙・楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献した。
秦王政の11年に初めて史書に登場し、同僚の楊端和らと共に鄴を攻めて、さまざまな計略を用いてこれを陥落させている。これ以降、政に重用されていたが、老年になってからは重用されなくなった。

楚の平定に当たり、政から諸将へ見通しを問われた際、王翦は「兵60万が必要」と慎重な意見を述べたが、政は若い将軍の李信の「兵20万で十分」という積極的で勇猛に聞こえる意見を採用し、楚への侵攻を任せた。ここで王翦は自ら引退を申し出て隠居する。しかし、楚へ侵攻した秦軍は、楚軍の奇襲を受けて大敗した。楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し、楚の平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が先に述べた通り60万の兵を与える。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。

王翦は、楚軍の迎撃に出るが、政自ら見送った席のみならず、行軍の途中ですら、勝利後の褒美は何がいいか、一族の今後の安泰は確かかなどを問う使者を政に逐一送った。そして国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍を待ち受けた。楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた。一方の秦軍も防御に徹して砦から出なかったため、膠着状態となった。楚軍は、攻めても挑発しても秦軍の出てくる気配が全くなく、砦も堅牢なため、これでは戦にならないと引き上げ始めた。しかし、これこそ王翦の待っていた機会であった。追撃戦で楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料と休息を十分に与え、英気を養っていたのである。英気が余って遊びに興じる兵達を見て、王翦は「我が兵はようやく使えるようになったぞ」と喜んだという。王翦が指揮を執る秦軍は、楚軍の背後から襲い掛かり、戦闘態勢になかった楚軍を散々に打ち破った。王翦は、さらに楚に侵攻し、翌年にこれを滅ぼした。

王翦は、政に逐一送った使者について、部下から「余りに度々過ぎます。貴方はもっと欲の無い人だと思っていましたが」と訊ねられた際、「お前は秦王様の猜疑心の強さを知らない。今、私は反乱を起こそうと思えば、たやすく秦を征し得るだけの兵を指揮している。秦王様は自ら任せたものの、疑いが絶えないだろう。私は戦後の恩賞で頭が一杯であると絶えず知らせることで、反乱など全く考えていないことを示しているのだ」と答えた。

王翦は政の猜疑心の強さを良く理解していた。引退を申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たないと判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑いで処刑・一族皆殺しにしかねなかったためである(呂不韋・樊於期という実例もある)。自分の意見が採用されなかったことで、政が「王翦は老いて衰え、弱気になった」と思っていると察し、素早く将軍の座から退いた。実際に引退を申し出た際、政は全く引き止めなかった。このため、政本人から将軍に請われ、ほぼ全軍を与えられてもいい気にならず、猜疑を打ち消す心配りを絶やさなかったのである。

王翦は、楚の平定後も政に疑いを持たれることなく、天寿を全うすることが出来たと言われる。


戦国時代知将.txt · 最終更新: 2020/06/10 00:55 by moepapa