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戦国時代武将


戦国時代武将

中国の戦国時代、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでの期間に存在した武勇優れる将軍情報です。


廉頗(れんぱ)

廉 頗(れん ぱ、拼音:Lían Pō、生没年不詳)は、中国戦国時代の趙の将軍。藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。
紀元前283年、将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。

天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。

敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。長平の戦いのあと、趙の衰退を見た燕王喜は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は現在の河北省柏郷県北部で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。また秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、紀元前251年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。
刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)は、中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如と廉頗が残した故事。刎頸の友ともいう。『史記』原文には「刎頸(之)交」とある。刎頸とは斬首のことで、「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」という成語として用いられる。

『史記』によると、藺相如は大国秦との外交で体を張って宝物「和氏の璧」と趙の面子を守り、趙王に仕える宦官の食客から上卿(大臣級)に昇格した。しかし歴戦の名将である廉頗は、口先だけで上卿にまで昇格した藺相如に強い不満を抱いた。それ以降、藺相如は病気と称して外にあまり出なくなった。

ある日、藺相如が外出した際に偶然廉頗と出会いそうになったので、藺相如は別の道を取って廉頗を避けた。その日の夜、藺相如の家臣たちが集まり、主人の気弱な態度は目に余ると言って辞職を申し出た。だが藺相如は、いま廉頗と自分が争っては秦の思うつぼであり、国のために廉頗の行動に目をつぶっているのだと諭した。

この話が広まって廉頗の耳にも入ると、廉頗は上半身裸になり、いばらの鞭を持って、「藺相如殿、この愚か者はあなたの寛大なお心に気付かず無礼をしてしまいました。どうかあなたのお気の済むまでこの鞭で儂をお打ち下され」と藺相如に謝罪した。藺相如は「何を仰せられます、将軍がいてこその趙の国です」と、これを許し、廉頗に服を着させた。廉頗はこれに感動し「あなたにならば、たとえこの首をはねられようとも悔いはありませぬ」と言い、藺相如も同様に「私も、将軍にならば喜んでこの首を差し出しましょう」と言った。こうして二人は互いのために頸(首)を刎(は)ねられても悔いはないとする誓いを結び、ここに「刎頸の友」という言葉が生まれた。この二人が健在なうちは秦は趙に対して手を出せなかった。


白起

白 起(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国・戦国時代末期の秦の武将。公孫起とも表記される。秦国郿(現在の陝西省宝鶏市眉県)の人。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。

紀元前294年、左庶長に任ぜられ、韓の新城を攻めた。紀元前293年、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕の戦い(中国語版)で24万を斬首した。また、魏将公孫喜を捕え、5城を落とした。紀元前292年、魏を攻め、大小61城を落とした。紀元前278年、楚を攻め、鄢郢の戦い(中国語版)で楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。紀元前273年、魏の華陽を攻め、華陽の戦い(中国語版)で韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。同年、趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。紀元前264年、韓の陘城を攻め、陘城の戦い(中国語版)で5城を落とし、5万を斬首した。紀元前260年の長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。

しかし、本国にあった宰相范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。紀元前259年、秦は、王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と国王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。
自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。


戦国時代武将.txt · 最終更新: 2020/06/10 00:46 by moepapa